エキササイズか哲学か 後編 ~武器は屁理屈!?坂本のふむふむヨガ問答~
前回、ヨガが哲学なのかどうかということを考えていて、そもそも「哲学」とは何かがわかりませんでした。
困っていたところ、ふと本棚を除くと、学生時代に哲学科の友人にすすめられた「自分を知るための哲学入門」という本がありました。この本、確かに初心者にとても分かり易く書いてあったのを思い出しました。
そもそも哲学とはなんぞや
早速ですが竹田先生、序章で「哲学とは何か」という問いに以下の三つで書いてくれています。
①ものごとを自分で考える技術である。
②困ったとき、苦しいときに役に立つ。
③世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。
これは!
と、思いました。
なんだかとっても参考になりそうです。
この辺りを詳しく、となるととんでもなく長くなるので簡単に要約します。
ものごとを自分で考える技術である。
私たちは自分で物事を考えているようで、社会や自分によってつくられた習慣的な考え方をしていることが多いでしょう。
そんな中、自分で考えるとはそれを書き換える、つまり習慣に逆らって(時に膨大なエネルギーを使って)考えるということになります。哲学はそういった活動を助けてくれるものだと。
②困ったとき、苦しいときに役に立つ。
そんなエネルギーを費やして習慣に逆らって考えることに何の意味があるのでしょうか。時に人は自分で作り上げたり世間から受け取ったりした習慣で考えて生きていて、しんどくなったり行き詰ったりしてしまいます。
その時に今までの習慣に抗って物事を根本から考えようという動機が現れます。この時に哲学が役に立つ、ことになります。
③世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。
西洋哲学において、世界をそのまま認識するということが決してありえないことが分かった歴史ともいえるそうです。ちなみにそういった目標は科学に譲ったとされています。
ただし、言葉でもって世界を「正しく」捉えようとして言葉を尽くした哲学の長く大きな歴史はあるわけです。その膨大な歴史によって獲得されたのは、哲学するものが自分を知り、自分と他者との関係を知っていくものだ、と言うのです。
要するに哲学とは
哲学とは、要するに、自分で自分を深く知るための1つの技術(art)である。あるいは自分と世界(他人や社会)との関係を深く知るための技術(art)である、と。
ヨガをやっている人が見たら!おお!ヨガと一緒だぁと思うかもしれません。大切なことは色んな分野で重なってくるんでしょうね。実際に私も改めてこの書物を手に取って、これは!と思いました。
哲「学者」と「哲学」者
ちなみに著者の竹田さんによれば、小難しい言葉を使って一般の人に届かない哲学の向き合い方をするのは哲「学者」であって、本当の「哲学」者は日本には少ないと批判されていました。
こういった哲学の考え方をお借りすると、ヨガを取り巻く状況も同じように見えます。
身体が柔らかくなったことや特定のポーズができるようになったと自慢しちゃうこと。瞑想の長さや深さを誇り、ヨガの哲学を難しく語ったりすること。これらは等しく本質的にヨガを深めていく姿勢ではないのかもしれません。
哲学的なヨガとは
先ほどの三つの哲学をヨガに合わせ、ヨガが哲学であるとしたら、こういった“もじ
り“になるかもしれません。
①ものごとの”あるがまま”を感じる技術である。
②日常生活に役に立つ。
③自分が何であるかを了解することを通して、世界の何であるかを模索する技術である。
①ものごとの”あるがまま”を感じる技術である。
自分の過去や社会によって作られた考えに、我々が縛られてしまっているという前提は同じです。その中で我々の知覚そのものに解釈や、エゴ、恐れが入り込んでしまっていると考えます。そしてそれらによって苦しんでしまいます。
そういったものと距離を取っていくためにも、自分自身にとってより身近なデータである身体や呼吸の感覚を育んでいきます。そして瞑想などのツールを用いてものごとの”ありのまま”を捉えていこうとします。
②日常生活に役に立つ。
考えだけでなく、身体や呼吸との付き合い方をこれまでの習慣に逆らって行っていくことに何の意味があるのでしょうか。しんどくなったり行き詰ったりした時だけでなく、常に付き合っていく身体や呼吸に働きかけることで日常に変化が起こると考えているのです。
実際、形が無い思考だけではなく、形がある身体や計測できる呼吸の方が働きかけやすく「日常生活に役立つ」とヨガをする人たちは考えるのです。
③自分が何であるかを了解することを通して、世界の何であるかを模索する技術である。
私たちの目はどうしても外に向きがちです。他人がどう、社会がどう、時代がどうなどなど。ただ、ヨガにおいてはあくまでも自分の身体や呼吸、そして心という自分の内部をつぶさに観察していきます。
その際に、では他人や世界のことはどうでもいい、というわけではありません。あくまで自分の内部を見ていく作業を通じて、他の人や世界を知ろうという方向性を持っています。
自分を知ろうとすることから始める
実際に量子力学や遺伝子学などの科学においても我々一人一人の中にとんでもない情報があることがわかってきています。それこそ宇宙レベルの情報です。「自分の中の神と外の世界の神は同一」などと聞くと如何にも宗教的・スピリチュアル~!となってしまいます。
ただ、言わんとしていることは「自分の中の(実は無茶苦茶膨大な)情報をまず知ろうとするということですよー。それは他者や世界を知ることにつながってますよー。」ということなんだと思います。
ヨガが哲学どうかよりも・・・
そのように見てきて、ヨガというものが運動の一つのタイプ、というものではないように、やはり思うわけです。(運動としてヨガに取り組むことももちろん否定されるものではないでしょうけども。)
ただ、こうして一まず「哲学」がどういうものかを少し紐解いた上でヨガを見つめてみて、こんな風に思います。
ヨガが哲学かエキササイズかという問いよりも、上のようなヨガが果たして可能かどうか、ということです。
つまり哲学的なヨガというものが可能かどうか、です。
哲学的なヨガが可能か否か
哲学的なヨガというものは
ヨガというものが
- ものごとの”あるがまま”を感じる技術であり、
- 日常生活に役立つものでもあり、
- 更に、自分を知っていく技術であると共にその先に他者や世界との関係をも模索していく技術、
として存在しうるのか。
こういったことがテーマになるのではないでしょうか。
ちなみにこのブログにおいて、例えばヨガの考え方やアーサナ・呼吸法・瞑想が如何にそんなことに繋がるのかをこれから書いていこうと思います。