京都で出会ったインド

京都で出会ったインド
今年の9月から二か月程京都にて一時帰国していた。そういえば京都においてインドをふと思い出させるものはあまりなかった。もちろん、その際にインドのイベントに出たりインド料理を作ったりもした。だがそれらはあくまで「日本においてインドらしさを作りだしている感」というようなものがある。

なんでそんなことを思ったかというとインドを思い出させるものにふと出会ったからだ。しかも一見インドと全く関係ないものだったから猶更強く感じたのだろう。

京都の千本通り
今年はインドのモディ首相が京都を訪れバラナシとの姉妹都市の提携も結んだ。他にも、例えば京都において北野天満宮では牛を祀っている。また、そもそも祇園は仏教の「祇園精舎の鐘の音」からきているように歴史的に仏教との関わりも強くインドとつながっていなくもない。

だが実際の生活において京都において(あくまで主観的にだが)「インドっぽい」と思う事物に出逢うことは少ない。(感性が乏しいからかもしれないが。)

そんな中、京都の千本通りを自転車で走っていて急にインドを思い出させた光景が以下のもの。

銀杏を拾うタクシーの運転手さん
タクシーの運転手さんが中央分離帯に車を止め銀杏を拾っていたのだ。しかも袋を見る限り結構たくさん拾っている。片手間で、というより本腰入れちゃってる。もしかしたら以前からその通りを通っていて「銀杏めっちゃ落ち取るなぁ。」と思っていたのかもしれない。毎年の恒例で拾っているのかもしれない。

これが私服で、自分の車で拾いに来ていたらただの趣味・道楽になる。私が強烈にインドを思い出したのはそれが制服姿で且つ仕事用のタクシーを使っていたからだろう。

というのもインドにおいてはよくこういった光景に出会う。例えば、

雑誌見る野菜屋さん

とか

テレビ見る卵屋さん

とか

寝る雑貨屋さん
とかとか。

それぞれ野菜屋さん、卵屋さん、雑貨屋さん。店の軒先で恐らく仕事には関係なさそうに自分の欲求を満たしてしまっている。テレビ見たり、新聞読んだり(しかも器用に寝っころがって)、寝てしまったり。。。

インドにおいて、こういった日本で言えば「さぼっている」光景は日常の光景。その上多くのお店で高額紙幣を持って行くとお釣りがないからと買わせてくれないこともある。多くの日本人や外国人旅行者にとって「商売する気はないのかな」と思ってしまう。そうした場合、その「さぼり」や「プロ意識の欠如」に怒る日本人もよくいる。

確かにそれぞれのプロとしたら店の軒先にいる時は、タクシーの制服でいる時は、プロとしてそれだけをしなさいというのも一理あるかもしれない。

でも、実際に人は店先にいようが制服着ていようが、お腹も減るし、眠くなるし、今日何が起きたか知りたくなるもの。それを無理やり押しつぶさないといけない、そういった仕事の進め方ってはの案外楽しくないのかもしれない。

お仕事のみしなさいという考え方は「お客様は神様」につながりそうでもある。そうなると今度は従業員に土下座させる事件とかコーヒーが熱くて火傷して店を訴えると勝てちゃう、そんな変なとこにもつながりそうでもある。

一時帰国で日本とインドの違いやらを何となく考えていた私は、本気で銀杏を拾うタクシーの運転手さんに人間らしさを感じていたようだ。

まぁ、お釣りがないからと売ってくれないのも困るんだけれども。。。