「ない」が「ある」に変わる!?言葉の力

知らない言葉

♪知らない言葉を覚えるたびに、僕らは大人に近くなる。けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある。♪

中島みゆきの「命の別名」の冒頭の歌詞。

私にも3歳の娘がいる。先日、メッセンジャーで動画通話をしていて「訳あり物件」と言われて驚いたことがあった。それは「じじゅチューン」で覚えたのだと妻に教えられた。

確かに「訳あり物件」を知らなかった頃と比べると娘は大人になったのだろう。というか、3歳児では使わない言葉に普通に焦った。そのうち微妙なことを聞かれたときに「訳ありで」とでも言うようになるのだろうか。

言葉を知る毎に私たちは大人に近くなる。そうかもしれない。

表面的な字義を知るだけでなく

しかし、もちろんそれだけではないようにも思う。所謂言葉の字面だけを知ることが大人になることではないだろうから。その言葉の表面的な意味だけを覚えることだけが大切なわけではない。

例えば、文学でも哲学でもその言葉のみを記憶している人とその言葉から自分の内部を豊かにしていく人がいたら、どちらがより「大人」なのかは言う必要もない。

内部でどんな刺激があるかはタイミングで異なる

例えば、どんな本を読むにしても読む時期やタイミングによってどこに気づきがあるのか、学びのポイントはどこかというのは変わってくる。これは誰しも経験していることだろう。

私も、例えば学生時代に父に勧められたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」でそんな経験があった。大学生の頃に線を引いた箇所がなんでそんなところに!と今の私はいぶかしがった。こうして瞑想などを人にシェアしている今となっては「人を愛するために瞑想の力が必要だ」なんて箇所を読んで改めて「はぁ~」と考えさせられたりもした。以前は瞑想と愛の関係なんてすっ飛ばしていた。

今この瞬間の自分、への気づき

ちなみに、10年前に読んだ時の感動と今読んでの感動に優劣はもちろんない。どっちが正しくて、どっちが間違っているとかでは全くない。ただ、その時その時の自分の状態とその文章や言葉が出会ったときの反応が違っているだけ。

そう考えていくとそこには、ある言葉と今の自分とのマッチングがそこで起こっている。だから、何かしらの言葉を内側に浸透させることで今の自分の状態への気づきにもつながる。その言葉に意識を沿わせていくことで、気づかなかった自分の思いや感覚につながることがある。

昔はトム・ソーヤの冒険に心を躍らせてたけど、もし今見たら育ての親のポリー叔母さんに同情するだろう。あんなに無茶な冒険する甥っ子には手を焼くな、と。そして我が娘が無茶して走り回るときの心情に心を沿わせる。トムが冒険に出て夜になっても家に帰らないなんて時には、そら胸が張り裂けそうになる。

マントラ(聖なる言葉)

ところで、私はインドにヨガを学びに来る人達に朝の瞑想会を主催している。瞑想というのは本当に多種多様。身体を使うもの、呼吸を使うもの、言葉を使うもの、日常の中で行うもの、などなど。

人によっても異なるマントラとの出会い方

一人であっても時や状況によってもその反応は全く違うが、人によってももちろん異なる。あるマントラがある人にとっては深く刺さるが、別に人にとっては全く違う。

こういったところはある程度の人数で瞑想を行う利点になる。他の人が涙を流すほど刺さるマントラであっても自分にはある種違和感があったりする。その逆の状況ももちろんある。その反応の違い自体が気づきになる。

違和感が出発点

慈悲の瞑想、というものがある。英語ではCultivation of loving-kindnessという。上座部仏教の中、サマタ瞑想の一つ。ウィキによれば「現代のヴィパッサナー瞑想においては、準備段階としてセットにして行なわれるが、仏教の精神をもっともよく表現した瞑想法としてきわめて重視されている。」とのこと。

この簡易バージョンが広く行われている。どんな文言を唱えるかというと

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように。
私の願い事がなくなりますように。
私に悟りの光が現れますように

と、自分の幸せを願うところから始まる。それから主語を私の身近な生命、生きとしいけるものに変えていく。幸せを願い、苦しみ・悲しみが無くなることを願っていく。

しかしそれだけに留まらない。自分の嫌いな生命や自分のことを嫌いな生命の幸せを願い、苦しみ・悲しみが無くなることを願っていくのだ。

偽善っぽい!

と、そう思われるかもしれません。ちなみにそのように感じることは自体は極自然なこと。私なんて2年くらいそう思い続けやらなかった。

ちなみにこの慈悲の瞑想、エビデンスが認められている。ストレスの軽減やポジティブ感情の増大、他者への共感性なども高まることが効果が認められている。

身体で納得

そういった効果以上に、やり始めて身体が納得していった。最初の頃は私や私の身近な生命、生きとし生ける生命までは心地よくなっていった。その気持ちが意識の中にあるものだから。慈悲の瞑想のマントラの文言に沿わせながら、自分の中にある幸せを願う気持ちを感じて心地よくなっていった。

でも、自分の嫌いな生命や自分のことを嫌いな生命の幸せを願うことは最初は拒絶した。「それは無い!」と。なんであんなやつの幸せを願わないといけないんだ、と。

最初は苦痛だったが、それでも続けていくと少しずつ趣きが変化していった。その苦痛をそのままに感じていくと、その「無い」の裏側が見え隠れしてきた。

プリンが「無い」のはかつて「あった」から

特定の誰かの幸せを願う気持ちは無い!と思うとする。でも、面白いことに「ない」は何かが「ある」が前提になっている。例えば、冷蔵庫にプリンが無いことに「無い!」と感じる時は、プリンが「あった」「あるはず」というのが前提になる。もし、プリンがそもそも無いならば「無い!」と騒ぐことはない。

「お母さん、私のプリンどこ!!え、タカシがたべたの?取っておいてって言ったでしょ!!」

と、ブチ切れるのは、プリンがあるはずだったとき。冷蔵庫に入れたことも入っていた過去もなく「無い」と大騒ぎするとしたら、喜劇か悲劇のどっちかだ。

「無い」の裏側を味わってみる

そう考えてみると、「・・・の幸せを願う気持ちなんてない」と思うから、その言葉に違和感を感じるとする。その時その違和感や違和感を導く言葉を避けるのでは無く、その感覚を感じることに好奇心を持ってみるのも面白い。その「ない」の裏側にどんな「ある」が見えてくることがあるから。

例えば

  • 仲良くなりたい感情が「あった」が、邪険にされた。
  • 親切にしたい思いが「あった」が、裏切られた。
  • 人のためという気持ちが「あった」が、邪魔された。
  • 大好きな想いが「あった」が、こっぴどく振られた

行動だけを見ると、邪険にされ、裏切られ、邪魔され、こっぴどく振られることは辛い。自分がダメダメに見えて、だからこそそう思わせた相手を嫌う。でも、その奥にある「あった」ものに目を向ければ、仲良くなりたい感情、親切にしたい思い、人のためにという気持ち、大好きな想い、が「あった」ことを知る。そこを見たら、

俺って結構いいやつじゃん!

なんて思えてくる。同じ体験から何を導き出すのかは100%その人次第とヨガでも教えらるが、こう考えると改めて納得。

で、ここで一つとっても大切なことがあるように思う。これらは思考で納得するようなものではないってこと。あくまで「ない」と思っていたものに意識を向け、感じ、味わうという態度の果てにみつけられるものってこと。

慈悲の瞑想をやってみての感想

実際に例えば慈悲の瞑想を紹介させてもらい一緒にやってみると人によっては興味深い感想をくれる。例えば、「特に嫌いな人はいないんです~」と思っていた20代後半の女性はこんな感想をくれた。

「別に嫌いな人ていないと思ってましたが、嫌いな生命の幸せを願ったらある人が思い浮かびました。そうしたら、何故か涙が止まらなくなりました。」

その時の表情は覚えている。涙でぐちゃぐちゃながらスッキリした表情だった。この場合は嫌いな人など「いない」から、誰かを嫌うことも「ある」自分に気づく。時に人を嫌ってしまう自分も認め、許すにつながった。

他にも自分が嫌うという執着が「あった」ことに気づく参加者や、自分とどんな関係の人であっても幸せを求めたい自分が「いる」という気づきにつながった参加者もいた。

言葉の不思議さ

改めて言葉とは不思議だ。

同じ言葉でも、聞く人によって意味は異なってくる。
同じ言葉でも、言う人が違えば受け取り方も全く違ってくる。
同じ言葉でも、昨日の自分とでは内側での広がり方は変わっている。

だから、ある言葉との出会いというのは、今この瞬間のその場所でのその人固有の出会い方がある。というかそれしかない。情報が散乱している今僕らは、言葉自体を選びすぎているのかもしれない。夥しい数の言葉との出会いがいとも簡単になったお陰で、外側に言葉を探していまう。

でも大切なのは言葉とどう出会っていくのかであり、言葉と出会った時の余韻のようなものなのではないだろうか。その言葉をそっと浸して見たときにどんな感情が広がるのか、何が起こるのか。言葉を味わうような、そんなあり方。

どの宗教などにおいても何かしらある、マントラ(聖なる言葉)の類いというのは、特に多くの人の心に強く訴えるようにデザインされているんだろなと思う。だから時に「ない」から「ある」が見えてきたりもする。

ちょっと丁寧に言葉と向き合う

両親より上の世代では言葉との出会いの数が限られていたので、その限られた言葉との出会いはより大切にしていたと聞く。連れ添うような詩を誰しも1つや2つもっていたんだと。もうそれはその人にとってのマントラだったろう。

今この時代、今まで比べると先が見えないことが鮮明になってきた。
何か言葉にならない思い。モヤモヤ。焦燥感。不安。。。
感情が沈殿しやすいからこそ、むしろゆっくりと言葉に浸るような時間を取るのが悪くないのかもしれない。

♪知らない言葉を覚えるたびに、僕らは大人に近くなる。けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある。♪

言葉を覚える、というのは単にその言葉の字句を意味を知るというだけではない。その言葉との出会いの無限の可能性に思いを馳せる、そんなのも含まれているんじゃないかと。

 

ってか娘は「訳あり」の意味をどこまで知ってるのかは謎だ。

 

 

 

 

お知らせというか告知!

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