「ヨガ=生きるアート」ってどういうこと?って話~武器は屁理屈!?坂本のふむふむヨガ問答~
前回のブログで竹田先生の著書を参考にヨガが哲学となるとしたらそれはどういう条件で可能かを考えてみました。今回は更に西洋の哲学、そしてヨガも「art」であると言われます。アート?ってことを考えてみようかと思います。
前回の話
竹田先生はその著書「自分を知るための哲学入門」においては哲学を
自分で自分を深く知るための1つのartである。あるいは自分と世界(他人や社会)との関係を深く知るためのartである、とまとめてくれています。
そんな考えを参考にしながら、同じようにヨガというものが「自分を知るためのツールであり人生の役に立つものである」ということを問うていきたいなぁ、と。「難しいポーズ」「フンガーフンガーする呼吸」「ただ座る」そんなことがただの趣味や運動というだけではなく生きることに役に立つのかどうか、ってことです。
ところで、竹田先生も哲学がartであると説明しています。インドヨガ留学のセオリー講師ルチカもよく「Yoga is the art of living.」と言います。
art、アート、あーと。
自分を深く知るための1つのart
Yoga is the art of living.
art? アート あーと
芸術?
ヨガとは生きる芸術!
何か高尚そうな匂いがします。生きる芸術!卓越した芸術家を褒め称える言葉として使われそうです。
「岡本太郎こそは生きる芸術だった。」
飲み屋でこういったことを語っているおじさまがいそうです。
いやいや、そうではないんですね。artとは芸術という意味だけではないようです。ラテン語研究者の山下先生のブログにこんなことが書いてありました。
英語の art (アート)はラテン語の ars (アルス)に対応し、日本語では「芸術」と訳される。
しかし、ラテン語の ars はギリシア語のテクネー に相当し、本来は「芸術」というより、自然に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉であった。
改めて語源を探ってみると、art(アート)には「芸術」という意味だけでなく、「技術」や「技」、という意味があるのです。つまり「Yoga is the art of living.」を訳すと「ヨガは生きる技術」「ヨガは生きるための技術」という意味になります。
「おいおい」という気持ちが浮かんできますよね。「いやいや、生きるのに技術なんていらないんじゃいか」と。私も、こうしてともあれ40を迎えるまでなんだかんだで生きてこられていますよ。これを読んでくださっている方々だって、衣食足りている状況でパソコンやスマホで読んでくださっているわけでしょうし。
まさか息も絶え絶えの状況で、読んで下さっているということはあまりないかと。
自然・野生の反対のart
ところで、先の山下先生のブログにはこんな続きがあります。
たとえば、英語 art の形容詞形 artificial は、「わざとらしい」とか「人工的な」という意味をもつが、その反意語は「自然な」という意味を持つ natural である。
つまり、英語の art の派生語には、nature の反意語としての意味、すなわち「人工」や「わざ」といったニュアンスを今も確認できる 。
一度形容詞にするとニュアンスが伝わってきます。artificialが「人工的」「わざとらしい」という意味になり、その反意語のnaturalは「自然な」「野生の」になるわけです。
そこからもう一度「art」を見ると見えてきます。つまり「自然・野生ではなく人工的、つまり理性によって磨いていく技」という意味になってきます。自然や野生、動物などと比較するとちょっとわかりやすいですね。
そう捉え直すと「the art of living」の訳は、「自然・野生からではなく理性によって磨いていく生きるための技」となるようです。
野生動物の生きる技術
この野生や自然との対比で考えるのが面白いなぁ。人間ならではの技というのです。
ところで、インドにはそこら中に様々な動物たちがいます。そういった生態を見れるのもインドにいることの楽しみの一つです。犬などは数か月もしたらお乳は飲みながらであっても、結構すぐに餌を自分で探して食べます。牛などは生まれたその日に自分の足で立てちゃいます。
それに比べて人間は1人前となるまでに長い年月がかかります。大学までと考えると20年以上だったり。そもそも、20年生きられない野生動物も多いわけです。
野生動物にとって生きるスキルというものがあるとしたら、まさに生きること。生き延びること。今日も食にありつくこと、安全に水を手にすること。寝込みを襲われずに明日も起きること。更に成獣になった後は子孫を残すこと。こういったまさに「生存」を如何に勝ち取るかがスキルとして重要となってきそうです。
彼らの気持ちはわかりませんが、天寿を全うでき且つ子孫を残すことができた野生動物はかなり幸福と言えそうです。
生き延びるだけでなく如何に生きるのか
そういった動物に比べ我々人類は、生きることはそう困難じゃない環境を作りあげちゃった動物です。いつでも手に入る食物や安全な水。雨風が凌げる場所。敵に襲われる心配がない生活。こういった環境を多くの人類が手に入れることができました。
もちろん、服を着て、言葉を理解し、箸やスプーンでご飯を食べ、パソコンやスマホを弄れるような、そういった技術を身に付けてはいます。ただ一旦そうなってみると、今日ただ生き残るためにはそこまでの技術は必要としなさそうです。
改めて考えてみれば、これはすごいことです。動物たちが喋れたら
「いいな、いいな、人間っていいな。おいしいおやつに、ほかほかご飯。あったかい布団で眠るんだろな。」
と、言うでしょう。
アフリカなどの大地で何とか狩りを成功させ、もしくは逃げ延び、食にありつき、その後の静かな時間を、仲間と共にただ風を感じているようなライオンやシマウマ。そんな時の野生動物のなんとも言えない穏やかな顔!。
考えてみれば、我々人間は、そういった時間を易々と持てるようになった、やっぱり特別な動物なんでしょうね。しかし同時に、その特別な動物である人間は天寿を全うし且つ子孫を残したとしても、それだけではもはや幸福とは思えなくなっているのかもしれません。
平均寿命が長くなり、且つ生きること、生き延びることだけにはそう技術が問われなくなりました。しかも、職・住・食・衣・パートナー選びなど、選択肢もとんでもなく増えちゃいました。
そうなると今度は、如何に生きるのか、どう生きるのか、という中身を問うてしまいます。確かに、多くの人間にとってただ生き延びること自体は難しくないかもしれません。しかし、そこに形容詞が1つ付くと状況は一変しちゃいそうです。
「良い」人生
「幸せな」人生、「穏やかな」人生、「苦悩なき」人生
一時的に、盛り上がったり、もてはやされたりするだけでなく、長期間にわたって幸福を噛み締めながら生きられる個人とは一体どれくらいいるのでしょうか。そうなってくると日本でもインドでも、そう多くなさそうかな、と。
日本やインドを見なくても自分自身を省みても同じです、はい。まぁとんでもなく調子乗ってると思ったら、次の瞬間にはあらーと真っ逆さま。まさに、ジェットコースターのような人生を送ったこともありました。
このように考えた時に、生きる技術、生きるための技術という言葉が別の意味に見えてきます。つまり人間は、生の中身を問うちゃうのです。幸せでありたいのです。人間にとっての生きるための技術は、幸せであるための技術とも言えるでしょうね。
そもそも技術とは
ここで技術そのものを考えてみたいと思います。
The art of ~~~という題名を持つ書物をインドに一冊持ってきていました。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」です。高校生の頃に、親父からもらった本です。この書において、フロムは愛というものを極まじめ~に論じてくれています。多くの人は愛することなんてできないよーと言い切っちゃいます。
まず「愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。」から始まります。
ちなみに、原題は「The art of loving」。先の訳をそのままもってきたら「野生・自然からではなく理性によって磨いていく愛するための技」になります。実際に、この本には理性的に愛する技術の磨き方が書かれています。
第一章に技術の習得について書いてありました。
技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。一つは理論に精通すること、いま一つはその修練に励むことである。
もし医学を修得したければ、まず人体や様々な病気について多くの事実を学ばなければならない。しかし、そうした理論的知識をすべて身につけたとしても、それだけでは医学を身につけたことにはならない。実際の体験を山ほど積んで、理論的知識の集積と実践の結果が一つに融合し、自分なりの直観が得られるようになった時はじめて、医学をマスターしたといえるのだ。この直観こそが、あらゆる技術の習得の本質である。
これを読み直し、そもそも「生きる」とか「良く生きる」ということについてこれほど真剣に考えたことはあったろうか、とう。なってました。うーん
例えば、
- そもそも生きるということがどういうことなのか深く考えたこと。
- 生きている主体であるはずの「自分」とは何なのか考察したこと。
- この体や心とは一旦どういったものか、を詳細に知ろうとしたこと。
- より良くいきることを自己啓発本の類では読んだことがあってもあっても、それを本気で学び、そして日々実践して生活してみたこと。
これらのことは、なかったです、はい。
そして「確かな理論と実践を組み合わせ修練の結果として直観を得、その直観を持って生きる」ことなど全くできてはいなかった、と断言できます。
何となく、立ち、歩き、座り、食べ、寝て、勉強したり、仕事したり、恋愛したり、旅行したり、していたかもしれません。そして何となく、こうして生きながらえてきました。
幸せに技術は必要か?
もちろんそんな「生きる技術」なんて学ばなくても、スーパーハッピーで、人生は常に穏やかで、苦しみ・悲しみがなくふか~く納得がいく時間を積み重ねているのであれば、そんな技術を学ぶ必要はないでしょう。
でも、もし何かしら
- 「人生このままでいいのだろうか。」
- 「何となく不安がある。」
- 「人前では楽しくやってるけど、一人になるとさびしさを覚える。」
- 「ぶっちゃけ、色々しんどい!」
とか、思うのであれば。「生きる技術」を学ぶのも一つかもしれません。
といっても、変化はしんどい
でもそれは何かしら自分への批判も含まれるでしょうし、とっても謙虚な姿勢が求められちゃいそうです。自分の半生や心、身体をつぶさに見つめ、今まで何か間違っていたのかもしれないな、という反省にもつながることも多いでしょうから。なのでそれは真剣にやるなら、相当しんどい作業になってきます。
ところで、自分を、特に心を見つめる作業に瞑想、というものがあります。洋の東西を問わず、多くの賢人や聖人、哲学者がおこなってきた知的な作業でもあります。最近はマインドフルネス、という言葉で科学的な根拠も研究されています。ただ、中々習慣にするのが難しいものでもあります。
自らも実践者であり瞑想を広げておられる、名越康文さんという方がおられます。精神科医で、著書も多くメディアにもよく出られています。
臨床の現場でも多くの人に瞑想を勧めるそうですが、続けられる方は少ないといいます。そんな中、実際に瞑想を日常に取り入れることができるのは以下のどちらかのタイプが多いんだとか。
瞑想ができる人というのは、「この世の地獄を見た人」と「いい意味で欲が出てきた人」というのが現実的ではないかと感じています。
じ、地獄。。。
ただ、確かに必ずしも戦争状態や極限状態でなくても、心というのは時にとんでもない状況を作ってしまうんでしょうね。臨床の現場からの実感なのだと思います。
ともあれ、実際に瞑想は地味で地道です。そしてただ座ることをしてみると、心が大騒ぎを始めます。そんなしんどい中、自分を見つめる作業ができる人というのは地獄を見たというマイナスが大きかったタイプか、野心があり人生をよりプラスに持っていこうというモチベーションがあるタイプのどちらかということになるようです。
「幸せは技術が決める」もしんどい!
今のしんどさを変えたいという動機か、もっと良い状態を求める動機。ともあれ今いる場所から動くことへ強い動機がないと瞑想のようなしんどいことは中々続けられないかもしれません。
そして!同じ理由から幸せには技術が必要、と認めるのもしんどそうです。幸せであるためには「野生・自然からではなく理性によって磨いていく生きるための技」が必要だと認めることは実は大変です。なぜかというと、少なくとも以下の4つのことを認めないといけなくなっちゃうからです。
①幸せを他者や環境に頼れない。
その生きる技術の担い手はあくまで自分。技術をただ磨いていくことによって自らの生の中身を問うていく、と認めなくてはいけなくなっちゃいます。
②幸せを運任せにできない。
より良く生きる、幸せになるということが自然に起こることではない、ということを認めなくてはいけなくなってしまいます。つまり運任せにはできなくなっちゃいます。
③ネガティブになる原因は自分の技術不足。
①と②を逆を考えると、不平・不満の原因も他人や状況、運のせいにできなくなります。「あいつの言葉、腹が立つー!」とか「インド人のクラクション、うぜー!」とか、自分に対しては「運が悪りー、最悪ー。」といった態度も見直さないといけなくなっちゃいます。
③毎瞬間、問われる技術。
ここでテーマとなる技術は「生きる技術」。私たちが生きているのは毎瞬間。となると、その技術は毎瞬間毎われることになっちゃいます。
・
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・・・
と、先人たちの知識を借り「The art of living」の理屈を積み重ねて書いてみましたが。。。
これはしんどい!!
毎瞬間、人のせい、環境のせい、運のせいにしないで自分の技術に全ての責任を引き受ける、と。究極的な自己責任です。
ところで、最近インドヨガ留学を卒業したF氏が「ヨガを手放せば楽になれるのかもしれません。もう無理ですが。」と何とも言えない顔でつぶやきました。それは自分の幸せや不幸の責任を全て自分でとらなければならないことを自覚しちゃったからなんでしょう。
「The art of living」の希望
言葉だけ聞くとかっちょ良さそうな「The art of living」
でも、これは受け入れるのは難解です。究極的な自己責任ってのがまず立ちはだかってきます。
しかし、こういうしんどいことを心から受け入れ、理論と実践を磨き、それが合わさる直観をもとに生きていこう!と覚悟した時に希望はあるんでしょうか。あくまで「幸せであるのは自分の技術の練磨による」と覚悟を持った時の可能性です。
以下の5つの可能性が理論上はあり得そうです。
①運の良し悪し、他人の言動、環境の変化、などが自分の幸・不幸に影響しなくなる。
運の有る無し、親や子供、パートナー含む他者の言動、環境や状況の変化など、自分にコントロールできないことが、自分の根本的な幸・不幸に影響を及ぼさなくなってしまうかも!技術ですから。
②no reasonの幸せを感じられる。
褒められた、感謝された、素敵な物が手に入った、評価された、愛された、美味しいものを食べた、などわかりやすい理由がなくても、幸せを感じられるようになる。つまり、no reasonの幸せ、存在しているという幸せを感じられるようになってしまうかも!だって技術だから。
③想像しなかったレベルの幸せを感じられる。
セルフイメージ(自己像)の中で「自分の幸せはこれくらい」みたいなのを私達は自然に決めてしまっているかもしれません。でも、そのようなイメージを超えたレベルの幸せを感じられてしまうかも!。なぜならば技術なんですもの。
④そのno reason、且つ想像だにしなかったレベルの幸せを、毎瞬間感じられる。
私たちが生きているのは、毎瞬間の積み重ね。その積み重ねに対して技術を磨いていくことで、no reasonで、それまで想像しなかったレベルの幸せを、毎瞬間感じられるようになるかも!なんてったって技術ですから。
⑤上の①~④の技術の磨き方は限界がない。
運の良し悪し、他者の言動や環境の変化などの影響が自分に与えるネガティブな影響を小さくする、no reasonな幸せを見つける、幸せを感じる瞬間がより細かく、そしてより長くなる、これが全て技術だとしたら。。。
技術一般の特徴として、限界はないはずです。
自分以外からのネガティブな影響が限りなく0に近くなり、幸せにどんどん理由がいらなくなるが、幸せレベルはどんどん高まる。そのno reasonでハイパーな幸せが毎瞬間訪れちゃう可能性がある、としたら。。。
めちゃ凄い!!!
認めないといけないしんどさは確かにでかいです。でももし、以上の5つの可能性が本当なら、そのしんどさを補って余りある希望ある話じゃないでしょうか。
それにしても、
自分が直接影響を与えられない外部の声はただ聞き流し、孤高に技術の高みを目指す。ちょっと頑固な渋い職人かアーティストのようです。
もうちょっとハッピーを目指すヨガ
そうやって「The art of living」を見てみると現状に不満がなかろうが、考えてみても悪くはないではなかろうか。皆が皆、「地獄を見た」ということはないでしょうし。ちなみに、先の名越先生は「良い意味で野心を持つ」ことを勧めるそうです。これはいいですよね。
今よりもうちょっと
- 穏やかに生きようとしてする。
- ご機嫌な時間を増やしてみようとする。
- さわやかな朝を向かえようとする。
これくらいを目指してみるというのは悪くないじゃないかと。
で、ヨガのこと
さてさてさて、ここへ来てヨガを考えたいです。語弊を恐れずに言いと、ヨガの理論や実践が正しいかどうかは実はどうでもいいんじゃないでしょうか。
どういうことかというと、「幸せは技術で手に入る」ということを理論・実践合わせて説明している「先行研究」の一つとしてヨガを見てみるような姿勢でいいんじゃないかと思うんです。人類の歴史の中で長い間受け入れられている一つの技術として、自分の身体と心を使って実験してみる。そんな態度です。
合わなければやめたらいいだけですし。
ただ、その際にはあくまで「技術」として理論と実践の両面を試してみる方がいいんじゃないかな、とは思います。ヨガの世界でも「ヨガ=アーサナ(ポーズ)、じゃない」ということはよく言われます。「技術」という側面から見てみても、ポーズ(実践の一部)だけってのは一部の中の一部だけになります。
他にも仏教や西洋哲学もそういった眼差しを持ってみるのが曇りなく見れるんじゃないかと思います。イメージで「宗教」「スピリチュアル」「難解」とだけ、見てしまうのはやっぱりもったいないのかもしれないなぁ、と。そういったものを、リトマス紙のように自分の人生を省みるツールとして使ってみる、という姿勢などで良いような気がします。
自分に問う
生きる技術ということについて考えたことをつらつら書いてみました。改めてこうしてまとめてみて個人的に思ったことを二つほど。
1、人間にはどれだけの可能性があるのか
改めて自分の可能性どれくらいがあるのか、良くわかっていないかもしれないと思いました。というよりはもしかしたら勝手にその限界を作ってしまっていることが多いのかもしれない、と。
昔好きだったアニメにトムソーヤーの冒険、というのがありました。アニメの主題歌にこんな歌詞がありました。
「おまえーならー、いーけるさー、トムー、誰ーよりもー遠くへー♬ 地平線の彼方ーで、待っている素晴らしい冒険がー♬」
特に動物と比較してみて思ったことです。人間として生まれたってことは思ってるよりもっと遠くへいける可能性を秘めた存在ってことかもしれません。ヨガしてるひとにとっては「サマディってリアルにあるんじゃね!?」って思ってみることかもしれないですね。
2、技術に全てを委ねる、と考えてみる
今回、このブログをまとめるのはとても時間がかかりました。2ヶ月くらいかかってます。あほです。そもそも、ヨガの道において門前の小僧見習いくらいで、こんなブログをまとめるのがそもそも無理があったかもしれません。
それはともかく、このブログを書きながら同時に自分に問うていかなければならなかったことも時間がかかった理由です。それはこんな言葉です。「そもそも私は全てを自分の技術に委ねられるか」と。まぁ、今はそこまで気負う必要はないと思っていますが。
「技術が全ての鍵を持っている、と思ってみっか」くらいなところからやってみようかと。変に周りに期待してしまうことやそれが適わなくて不機嫌になること。こういうのは、自分としていい感じではないので。
ヨガはロック!?
最後に。
先ほど、The art of livingを受け入れている人は昔気質の職人っぽい、と書きました。でもこういう表現になるとまた変わります。
「♬運も他人も環境も本当は影響なんて与えない!ハッピーなんて自分の手で掴みとるのさ!それすら違う。いつでもそこにあるんだぜ!♬」 完全にロックンロールです。と思ったらやはり元ブルーハーツのヒロトさんが仰っていました。
「幸せを手に入れるんじゃない。 幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ。」
2ヶ月もかけて長々と理屈で論じてきたことを、ヒロトさんはたった二行で言い切ってくれています。格好良すぎる。。。
そういう心を手に入れるための確かな技術がある。私はその理論と実践を積んでいます。こんなことを静かな覚悟を持っている人が本物のヨギー・ヨギニ(ヨガに取り組む男性・女性)と言えるのかもしれませんね。
この「Yoga is the art of living.」という言葉が気になって書き始めてみて、最後はヒロトさんの言葉で締めくくらせてもらうことになるとは!わからんものです。
では~
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2022年:隔月開催