ヨガがしんどかったワケ「坂本のヨガ日記 ~身体が硬くてメタボなおじさん達へ、 ヨガって実は我々のためにあるのかもしれないんです~」
前回のヨガブログから大分時間が経ってしまいました。今回のは考えを言葉するのが難しかったこと。ちょっと内容が自分自身の話で躊躇してしまったら、時間がかかってしまいました。正直に言うと恥ずかしかったんです、はい。
前回までともあれヨガ講師である母の影響で、ヨガとは縁がありつつも実際に始めたのは半年未満。ただ実際に始めた時にとんでもなくしんどかった、というところで終わっちゃってました
ヨガがしんどかったのは何故か。
それにしても、なぜあんなにもしんどかったのか。特になんで精神的にやられちゃったのか、です。
たかだが、身体的にちょいとしんどいポーズを少しの間するだけ。それでまた次に別のちょっとしんどいポーズをするだけ。この連続が客観的に見たヨガ(特にアーサナ)の、はず。そんなことが何故過去の自分の過ちなどを連続で思い出してしまうなど、肉体的よりも精神的にしんどいことになったのか!これが自分でも気になってました。終わった後凹みすぎて、でもそれを表に出さないようにしてしまい変な顔になってました。
インドでヨガする人をコーディネートする役割を持っている。その自分がヨガしてしんどくて凹む姿、あまり見せられたものじゃありません。
ヨガが自分と向き合うこと?
ヨガを始めた頃アーサナをしながら、考えるとはなしに私が意識していたのは母から聞いていた言葉達。
「ヨガは身体が硬い方が向いている。」
「ポーズができるできないにこだわらなくていい。」
「ヨガは自分と向き合うこと。」
この3点でした。身体が柔らかくなればいいとは思っていました。でも母から硬い方が向いてるとも聞いており、そこに純粋に意識は向かず。
特に痩せたいとも思っておりませんでしたから、体型を変えたいなどにも向きません。
綺麗なポージングを取りたいと思う人もいます。しかし、そこに関してもそんなことにこだわるな、と母から聞いておりました。そうなると意識の向けどころが別のところにいきざるを得ません。
「こうやって身体を動かすことと自分と向き合うことがどうつながるんだろう。」とぼんやり考えていました。
小学生の時の記憶が蘇える!?
ゴームクアーサナ(牛の顔)というポーズがあります。
片手を肩口から下に、もう片方の手を背中から上に回して手を組むポーズです。私は今でも届きません。しかも結構手が離れております。これを最初に試した際に、思い出された光景がありました。
それは小学校3年生の時のこと。クラスの女子たちが背中で手が着くかではしゃいでいました。両手がちょっと着く女子もいれば、ガッチリ握れる女子もいます。つられて男子もやりだしました。多くの男子は手が着きません。私もそうでした。
それから1週間くらいしてからでしょうか。前回は手がつかなかった男子生徒、どうやら家で練習したらしい。両手が背中でくっつくようになったことを見せていました。女子達も「すごいね!」「練習したんだね」とはしゃいでいました。それを見た時に私は「っふん、そんなことができたって、俺に徒競走も相撲も勝てないじゃないか。」「女子達に媚びやがって!(ちやほやされて羨ましい!)」と思っていました。(いやー、恥ずかしい。)
あの時もう少し頭が柔軟であれば私も同じように練習していたかもしれません。そうしていれば今だってもう少し楽に着くことができたのかもしれないのです。少なくともそんな風に考えずに、純粋に努力を讃えても良かったはずです。
頭も体もごつかった・・・
考えてみると、私はヨガを始める前マッチョな体を誇っていました。サンタナのイベントで腕相撲やビーチでの相撲もまぁほとんど負けない肉体でした。腕相撲チャンピオン、ビーチ相撲チャンピオンと呼ばれて調子に乗っている私もいたかもしれません。
ただ、そういったゴツゴツの筋肉だけ人間だった頃、問題解決の仕方は同じようにマッチョだったんです。何かしら攻撃されるや否や、冷徹に論理的に一気呵成にで相手をやりこめる。そんなことが多かったのです。あぁ恥ずかしい!(ちなみに筋肉を否定しているわけではありません。スポーツによっては身体を守るためにも必要ですしね。)
他には例えば
・小学~高校くらいまで父親と幾度となくぶつかってきたこと。
・恋愛での実は同じような失敗してきたこと。
・生業の選択肢をやたら狭く考えていたこと。
・自分らしく生きているようで実は人の目を気にしまくっていたこと。
・でもそれを押し通していたこと。
例えばこうした関係ないはずだった人生の一連の出来事が「頭の硬さ」というワードで結ばれたんです。
アーサナをしながら見えてきたものは、柔らかさではなくて力で生きてきた自分自身でした。その自分自身は一朝一夕に作られたわけでもありません。ヨガのアーサナは基本的にゆっくりとした動作やちょっとしんどいポーズで静止するものです。身体の柔軟性や持続力、筋力の全てがまざまざと突き付けられます。これが早い動作を行う運動ならこんなことに意識が向くことはなかったと思います。
身体の不思議
そんな風に考えてみると身体とは改めて不思議なものです。普段は全く意識しませんが、私たちの身体は今までの多くの選択が刻まれています。
・どんな物をどれだけ食べてきたのか。
・どれだけ休み寝てきたのか。
・どんな運動をどれだけしてきたのか。
・どんな姿勢・呼吸で生きて来たのか。
・どんな表情で生きて来たのか。
・どんな病気や怪我をしてきたのか。
どんなスポーツをするかというのは特に小学生から高校生くらいまでの大きな選択の1つ。学生時代、どの部活にするのかはドキドキものでしたね。また、生まれつきのであったりどんな病気にかかるかであったり、時に自分の意思には見えないことも。ただその生まれや病気にどう向き合うのかは自分の選択になってきます。
同時にどれくらいの量を食べるのか、またはどんな表情や姿勢でいるのかなどは毎瞬間の選択になります。練習して体を柔らかくしたクラスメートを見た時にどう反応するのかも1つでしょうね。そう考えると今までの選択が身体に刻まれるというより、自分の選択の結果でできているのが身体とも言えそうです。
毎瞬間何かを選ぶ。これは単に物理的な身体への影響を超えて自分の考え方や精神のありようとも関わってきそうです。以前、「頭が硬い」と言われたことが何度かありました。そして実際に身体も頭も硬かったですし、今でもまだまだ硬いでしょう。
ある選択をし続けた結果その選択に沿った心身が作られるのか、ある心身を持つ人がその心身に沿った選択をしやすいのか。どちらが先かはともかく身体と心が深く関係していることは間違いないでしょう。一般論はともかく「身体の硬い人は頭も硬いことが多い」というのはまさに自分のことでした。
意識しようがしまいが、誰しもそういった瞬間瞬間の選択の積み重ねで自分の肉体も精神も作られているんでしょうね。それは今この瞬間も。そういったことをアーサナを通じて緩やかに、でも強烈に思い知らされたっていうわけでした。
私は今までの人生で起こったこと、自分が苦しんだことも人に迷惑をかけてしまったことも、全ては自分の選択が引き起こしたことなのだと他でもない自分の身体に教えられたわけです。だからしんどかったのです。今までの苦しみは全部自分で招いたってことを受け入れざるを得なかったからです。わかってみれば、なんてこっちゃないです。
そうして自分で選んできたことを自覚して初めて、別の道を選ぶことができるのかもしれません。別の道、なんてことを考えられるようになったのは時間が経ってからでしたけど。しばらくは「自分はドMか!?」「いつかは楽になるのか!?」と暗澹たる気持ちでヨガに通っていました。